日本のホテル
1854年(嘉永7年)3月、江戸幕府はアメリカ合衆国とのあいだで日米和親条約を締結しました。前年、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、フィルモア米大統領の親書を幕府に渡して開国・通商を求めていましたが、幕府側に1年の猶予を求められたため一時退去したものの、再び来日しての条約締結でした。
これにより日本は否応なく、欧米との通商を余儀なくされ、それにともなって往来の激しくなった外国人のため宿泊施設が必要になってきます。明治に入ると、さらにホテルの建設は急激に増加します。その多くは外国人専用のものでした。
このように日本のホテルは海外との門戸が拡がることによって発展してきた側面があることは否定できません。しかし、ホテルは欧米の文化を吸収することに貪欲であった当時の日本人にとって、重要な接点になっていったのです。
わが国におけるホテルの嚆矢は、1868年(明治元年)に東京・築地で開業した「ホテル館(築地ホテル館)」だといわれています。このホテルは103の室数をもっていたそうです。
1878年(明治11年)箱根宮ノ下に「富士屋ホテル」が開業、1890年(明治23年)11月には「帝国ホテル」が開業して本格的なホテルの幕開けとなりました。帝国ホテルは、総建坪1300余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層、室料は最下等50銭、2食付き2円50銭〜9円というものでした。
大正から昭和初期には、日本の国際的な地位が高まり諸外国との交流が活発になり、首都・東京だけでなく、外国人のあつまる横浜・神戸・京都などにホテルが相次いで建てられました。1938年(大正13年)「丸の内ホテル」が開業、1927年(昭和2年)横浜では山下公園を正面に「ホテルニューグランド」誕生しています。
第2次太平洋戦争前後にやや停滞していたホテル業界ですが、ホテル建設に勢いがついたのは、なんといっても1964年(昭和39年)の東京オリンピックです。来日する諸外国の選手や報道陣・観光客を目的に、ホテルの建設ラッシュがはじまりました。これが第1次ホテルブームと呼ばれるものです。このとき、「ホテルオークラ」・「ホテルニューオータニ」などの老舗ホテルが誕生しています。
外資系ホテルもヒルトンホテルが1963年(昭和38年)にわが国に進出したのを皮切りに、徐々にではありますが勢力を広げていきました。それまで日本のホテルのほとんどが土地・建物をみずから所有し運営も兼ねる方式だったのに対し、外資系ホテルは投資を伴わない運営委託方式というスタイルで日本市場に進出してきました。
オリンピックから6年後の1970年(昭和45年)の大阪万博の開催が決まると、関西を中心にホテル建設ラッシュがはじまりました。また万博によってレジャーブームが巻き起こり、新幹線や国内航空路・高速道路網などの拡充とともに、地方都市にもホテル建設の波が押し寄せることとなったのです。この1970年から1980年にかけてはホテル産業が飛躍的発展をした時代で、第2次ホテルブームと呼ばれることもあります。
1986年12月から1991年2月までつづいた経済のバブル時代には、国内のあらゆる地域開発のなかで、ホテルがその中核施設として組み込まれましたが、バブルの崩壊とともにホテルの開発は停滞期を迎えます。
ホテル業界は、バブル期に過剰投資したことにより、身動きが取れない状態がつづきましたが、90年代末から新しい動きが出てきました。それは「宿泊特化型ホテル」の登場です。「宿泊特化型ホテル」というのは、料金設定は朝食付き、サービス料なし、婚礼・宴会場なし、レストランは1箇所だけという特徴を持っていました。
こうしたなか国内のホテル市場はいま、いっぽうでは「宿泊特化型ホテル」、もういっぽうでは「ラグジュアリーホテル」というふうにマーケットの分化が進み、停滞していたホテル開発はふたたび活況を呈してきているといってもよいかもしれません。